「食を楽しむより写真が大事?」お客さんに違和感を抱く26歳の寿司職人と“食の現代病”について考える| “社会の普通”に馴染めない人のための『REINAの哲学の部屋』 #002

Text: Reina Tashiro

Photography: Noemi Minami unless otherwise stated.

2017.10.31

Share
Tweet
 

こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第2弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。

伶奈って誰?▶︎「当たり前」を疑わない人へ。「哲学」という“自由になる方法”を知った彼女が「答えも勝敗もない対話」が重要だと考える理由。

今回の相談:寿司職人は評価される「モノ」じゃない 。違和感を感じる自分って変ですか?

この7月より、カウンターのみの寿司屋を1人で切り盛りしています。お客さんとは近距離ですが、彼らは写真を撮ってSNSや評価サイトに投稿したりと、食事を楽しみに来るというよりも、僕が作る寿司を評価するために来るように思えてしまうことがあります。

確かに1万円前後のお金をいただくわけなので理解できなくもないですが、なんとなく、自分がショーケースに並べられているように感じることや、檻の中の動物のように感じることがあります。食事は本来楽しむものなのに、なんでそんな怖い顔をして食べているの?! となる時も。

そんな時は、人と人の関係ではなく、モノとして見られているとさえ感じ、恐怖を感じることもあります。カウンター商売はパフォーマーにも似ていると思いますが、それに対して対価をもらう以上、そういった関係になってしまうことは仕方ないのでしょうか?

(Kさん、26歳、男性、名古屋在住)

 

Kさん、こんにちは。ご相談ありがとうございました。お話を受けて考えたことを書きます。

SNS映えなんてくそくらえ

哲学!対話!他者!と毎日連呼しているわたしですが、インスタが好き。食べログも好き。いいねされたいし星が多い店を信頼しちゃう。考えてみると、店主の顔もほとんど見ていない。「冷めちゃうよ〜」という母親を横目についついその鮮やかな手料理も撮ってしまう。

自戒を込めて「SNS映えなんてくそくらえ」。なぜかわたしたちは、食そのものを楽しむことで得られる満足感以上のものを、どこからか得ようと必死なのかもしれません。その結果、食が、単なる消費の対象になっている。ああ、現代の病、だ。

iPhoneや星の向こうに、顔を見て笑い合えるはずの他者がいることを、心を込めてお寿司を握るあなたがいることを、ついつい忘れてしまう。「いただきます」の意味が薄れ、食からそこに生きているはずの人が消える。この現代の病は「食に生きる人々」を踏みにじるものだと思います。

“食”ってなんだろう

とはいえ、感謝すべき相手が見えない冷たいコンビニ弁当時代に「食を楽しむこと」ができるのでしょうか。というか、そもそも食ってなんなのだろう。

食べることの意味が、生命維持や自己保存だけであれば、食に美味しさや楽しさなんていらない。けれどわたしたちには、食文化というものがあります。食文化は、人間が創造してきたものです。だから寿司職人は長い年月をかけて修行し、丹精込めて一貫一貫握る。

本来、食の中心には人間がいます。食は、作り手と食べる人、食べる人同士を繋ぐもの。人と人を繋ぐもの。だから、SNSや食べログに対し、おいおい人の間に勝手に土足で入ってくるなよ! と感じるのは当然だと思います。

ていうか、わたしたちは日頃から目の前に置かれたものを何食わぬ顔で食べているけれど、どういう経緯でその食べ物がここにあるのかよくわかっていない。毒が盛られているかもしれない。食の安全が叫ばれる時代に、安全である保証がない食べ物を、出会ったばかりの見知らぬ他者から提供され、嬉しそうに食べて食べて食べまくっている。考えてみると、食べることはとても恐ろしい。

どうやら食は、提供する側と食べる側の信頼関係のうえに成り立っているようです。食を楽しむことができる社会は、出会ったばかりの他者を信頼し受け入れる、寛容な姿勢を持つ社会なのではないでしょうか。

width=“100%"

他者を手段としてだけでなく同時に目的として扱え

「人と人の関係ではなく、モノとして見られているとさえ感じる」というKさんの気持ち、よくわかります。食に限った話ではなく、これもまた現代の病がもたらす恐怖感なのかもしれません。

18世紀に活躍したドイツの哲学者イマヌエル・カントは、すごぶるカッコイイ言葉を残しています。

人間および一般にすべての理性的存在者は、目的自体として存在し、誰かの意志の任意な使用のための手段としてのみ存在するのではなく、自己自身の対する行為においても、また他のすべての理性的存在者に対する行為においても、常に同時に目的として見られねばならない。

2017年日本から突然1785年プロイセン王国。寿司からカントかよ。

カント大先生の目眩がするような言葉を要約すると「自分や他人を単に手段として扱ってはならず、 常に同時に目的自体として扱わねばならない」ということ。人間を交換可能な「モノ」のようにだけ扱ってSNSや評価のための手段にしたり、「お前の寿司じゃなくても別にいいし」みたいな態度で蔑ろにしてはいけません。相手をきちんと人間と見なして尊敬しましょうというお話です。それが、生きるうえでなによりも大事だと。
 
食が人と人との関係だとすれば、カウンターでお寿司を食べるときにわたしたちが享受しているのは、寿司そのものだけでなく、寿司を握るまさにその人。それに加え、質感や雰囲気などその人が醸し出す全てに一万円以上の対価を払っているのではないでしょうか。

だから作り手に感謝しながら感謝しながら食を楽しんでほしいと願うのは当然。写真を撮り怖い顔で評価しながらお寿司を食べることは、食に生きる人への冒涜だから。

ああ、でも「お金払ってんだからこっちの自由やん」って言う人もいそう。学費払ってるんだから授業休んでもええやん、給料払ってるんだからもっと働けや、と。最近よく聞くこういう論調に「ちょっと待ったー!」をして締めたいと思います。

なぜだか人間って、人間関係の中で生きていることを忘れがちだと思う。人間は、代替可能なモノではないし、他者不在の自由なんてない。他者がいなかったらお寿司出てこないのに、ね。だから「僕が売っているのはそれじゃないっす!」「自分も人間っす!」「目的として扱ってくれ!」って呼びかける権利はどこまでもあると思うのです。

なのでKさんの「対価をもらう以上、そういった関係になってしまうことは仕方ないのでしょうか?」に対して言いたいのは、仕方なくないよ!ということ。

あまりにもモノ化してくる人が現れたら、カウンター越しに「“食”ってなんでしょうね」って問いを投げかけ、ドヤ顔でカント大先生の話をしながらお客さんと一緒に考えてみてください(お洒落な寿司屋でそんな野暮ったいことしないかな(笑))。

width=“100%"

今回のお悩みも一緒に考えてくれたら嬉しいです。意見や批判、感想をお待ちしています。Twitterハッシュタグ「#REINAの哲学の部屋」で。

田代 伶奈

Twitter


ベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。現在自由大学で「過去に向き合うための哲学」を開講中。Be inspired!ライター。

width=“100%"

※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

Share
Tweet
★ここを分記する

series

Creative Village