「アートか、わいせつか」の議論から離れ、“性表現の規制”をかいくぐって遊ぶフォトグラファー

Text: Shiori Kirigaya

Photography: Ryohei Obama unless otherwise stated.

2018.6.29

Share
Tweet

脳で深く考えるよりも、身体が撮りたいと感じるものを撮影するスタイルをとってきた写真家のタクヤワタナベタクヤ。彼は自身を「写真家」とは名乗らず、ただ「写真をやっている」と説明する。

筆者がそんなタクヤ氏に取材しようとコンタクトをとったのは、今年開催された、とあるアートブックフェアで偶然彼の作品を置いているブースを訪れ、彼の作品のポスターが剥がされたという話を聞かされたからだった。デートアプリ「ティンダー」で知り合った、一夜限りの関係の男性二人のカーセックスを撮ったZINE「FOOD」のポスターには小さく男性器が写っていたようだが、なぜ撤去されなければならなかったのか。性表現の規制の話をふまえて、彼の見解を聞いてみた。

性表現を規制してきた曖昧なルール

日本の性表現を規制する刑法には、わいせつなものを不特定または多数の人々が認識できる状態に置くこと、無償・有償で配ることなどを刑事罰の対象にする「わいせつ物頒布等罪」がある。(参照元:横浜ロード法律事務所)これがさす「わいせつ」に何が当てはまるのかについては、幾度も議論がなされてきた。それには、取り締まりするうえでの判断基準の曖昧さが関係しているようだ。

「わいせつ物」とみなされるものを流通させてはいけないというのが大まかにあって、該当するものには「18禁」をつけないといけない。何がわいせつ物なのかっていうのはグレーでタイミングによって揺らいでいく。それに加えて、製作者の知名度とかどの程度社会的に認められているか、展示されている場所や時代性によってすごく左右されている印象です。

width=“100%"

タクヤ氏は、1992年に発売されたアメリカの歌手マドンナの写真集『SEX』の写真を例に、罰するかどうかの判断に作者や被写体の知名度が関わってきた事実を話してくれた。当時の日本の週刊誌に、その写真集の一部が掲載されたのだが、それにはマドンナの陰毛が写ったものなど過激なヌードが含まれており、発売禁止になったとしても不思議でないと考えられたが何事も起きなかったという。

警察からの停止命令があってもしょうがないくらいの感じで発売したみたいで。話題性もあるし、販売停止命令が出る前に売り切れるだろうって考えられていたらしいですけど、そのときは国から何も注意がなくて。そこから規制が緩くなったり、また世の中の声や社会事情によって少し厳しくなったり、波があります。

印刷物ではないが、写真を共有するインスタグラムなどのSNSでも何が違反で何がそうでないのかの境界が曖昧だと彼は指摘する。同じ人物の同じヌード写真をアップロードしても、削除される人もいれば、されない人もいるからだ。

性行為を写した作品のポスターを剥がされて抱いた感情

タクヤ氏が同アートブックフェアで販売・展示していた作品「FOOD」が写すのは、ティンダーで知り合ったワンナイトの関係にあってこの先どうなるかわからない二人。できあがった写真を見て脳で思考し読み取っていくという彼独自の作業をしているうちに、人間の三大欲求の概念が思い浮かんだ。睡眠はクオリティを大きく問われないが、どんなものを食べるか・どんな人とセックスをするかが体調や精神面に毒のようにも薬のようにも影響することに思いを巡らせ、食欲と性欲の類似性を感じたため、タイトルを「FOOD」と名づけることになる。

width=“100%"

同名のZINEの表紙にもなった写真(男性二人が向かいあってキスをし、片方の男性がもう片方の男性の性器を手で握っている)のポスターが会場から撤去されたのは、フェアの最終日である4日目。作者である彼への確認はせず、ただ剥がされただけで、タクヤ氏が到着しても誰からも忠告を受けなかった。ブースにいたスタッフから経緯を知らされた彼は、そこで何を思ったのだろう。

ポスターが剥がされたと聞いたとき、二つ同時に思ったことがあって、「よく最終日までもったな」というのと「そういえば性器とかって公衆の前であまりおおっぴらに出していいものじゃないんだ」ということ。対極にある考えなんですが、同じくらいのタイミングで湧いてきて。

width="100%"
FOODのポスターとして使用されていた写真
Photo by takuya watanabe takuya

家族連れの多いイベントではなく、ポスターの性器が出ている面積も小さく、彼からしてみれば問題があったようには思えなかった。ここで興味深かったのが、彼は怒りもせず、むしろその反応をおもしろがっていたこと。より話を聞いていくとタクヤ氏の考えは、スケートボードやグラフィティアートなどが持つ「規制をかいくぐる感覚」に通ずるようだった。

自分としてはあまり「性器の写真」というイメージがなかったけど「そういえば出ているんだった」って。反応を見るのはおもしろいですね。それに対して、じゃあ次はどうやろうって、その間を遊んでいく感覚です。ビルの前にあるでかい彫刻にスケートで突っ込んでいくとかそういう感覚で、本来とは違う用途でどう扱い遊ぶか、ルールをどう自分で解釈して遊ぶかっていうことに楽しさを感じます。それによっておもちゃが増えるというか、考えるトリガーが増える感じですね。

今回のことに関しては「最終日に、ポスターのみ」という部分から、重く考えてはいなくて、ルールを守らないと怒られる立場の人間が気づいてしまったんだろうなとか、次に偉そうな人が来たらポスターの前に立っとこうかなとかその程度ですが、「これだけ多くの人が自由にさまざまな情報へアクセスできる時代に問題になるような写真か?」という疑問はあります。仕方のないことだとは思いつつも、法は常に追従する存在なのでそれを用いる人間そのものやテクノロジーの進化するスピードに離され続ける。

アートと「わいせつ」の違いは何か

何が「わいせつ物」にあたるのかという議論と同様に、「アートかわいせつか」の境界線がどこにあるのかの議論も度々耳にしてきた。タクヤ氏の意見を尋ねてみると、彼のなかに特に区別はなく、その二つを分けることが個人の利益になるわけではないと話す。

「生きる目的は」とか「生きている理由は」っていう質問と結構似ているかなっていう気がします。各々のなかにだけ存在するし、そんなもの最初からないし。社会が勝手にそれを輪郭づけないと不都合があるから、わいせつとかアートとかに分けたいだけで、個人のなかに区別をつけなきゃいけない明確な理由もなければ、区別するメリットもないかなって思っていて。わいせつかアートかは特にないですね自分のなかでは。好きか嫌いかみたいなラインに従っていきたいです。

width=“100%"

社会が二つの間に境界線を引こうとするとき、もし好きか嫌いかというような好みが影響しているとしたら、彼の作品を好むか好まないかの違いで「アート」に区分されることもあれば、「わいせつ」に区分される可能性だってあるのかもしれない。これは多くの人が価値のない“ガラクタ”とみなしがちなものを愛するなど、ジャンクさを志向する彼の美的感覚に通ずるともいえる。

見る人にどう受け取られようが自分の感知できないところだなっていうイメージがあって、すごく綺麗だと思ったものを汚いと言われたり、自分がまったく好きじゃないものを好きだという人もいるかもしれないし、そういう意味では人と人とは歩み寄れてもわかり合うことはできない。

人が物事を理解するために無意識のうちに頭の中で行ってしまうといわれる、人や物のカテゴリー分けやラベリングもそうで、他人が自分の作品や作風をどういう言葉で形容されるかを操作することは不可能だ。

width=“100%"

自分の写真にヌードが多いので、“セクシャルなもの”とか“エロいもの”を多く撮っている人っていうイメージがあると言葉にされたことがあって、ああそういうものとして見えるのかっていう感覚はありました。ポルノだと思う人もいれば、それが愛とか風景写真に見える人もいて、その解答を自らの意見として示したいわけでもなければ自分以外に適応される解答を持っているわけでもない。

ルールはなぜ存在するのか

彼の作品のポスターはなぜ剥がされてしまったのだろう。タクヤ氏は未だに誰の意向でそうなったのか知らない。性行為などの「性的な表現」を規制しなければならないという考えのもと判断が下されたと考えられるが、果たしてそれは場に必要だったのか。ただ来場者が鑑賞できるものを制限しただけだった、という見方もできるはずだ。またアートに関心の高い層の集まるアートブックフェアにおいては比較的考えにくいが、作品で同性愛を扱ったことが一部の人には受け入れられなかったのか。

世の中に存在するルールは「各々が信じる芯を見つけるための作業を簡易化するための優しさ」に近いのではないか、とタクヤ氏は話す。それらは人々が権利を侵害されず安全に、不快な気持ちになることなく生活するためのに必要なものとして存在している。だが、常にルールに従っていれば幸せかとか安全というわけでもない。ルールのもとにある基準が不明瞭なことだってある。それは人間が作ったもので、ときに時代に合わなくなっても、そのまま放置されているからだ。言うまでもなくルールは守るべきものだが、その存在を疑問視してはならないわけではない。

最後に彼は、ルールというものに対する解釈についてこう言っている。

公式だけを暗記して用いるようなことはしたくなくて。成り立ちを証明できないものを知っていても、理解できないと応用もきかないし何より誠実じゃない。ひとつひとつを疑い証明していく作業はハードで迷惑もかけるけど、身に染みていく。理性や脳よりも身体の可能性を信じているので、身体で理解して進みたいです。

takuya watanabe takuya(タクヤワタナベタクヤ)

WebsiteTwitterInstagram

width=“100%"

NAZE × takuyawatanabetakuya × 森本悠生 exhibition

「SAIAKU NI SHITEIKU 2」

2018/06/29(fri) – 07/08(sat) ※closed on 07/04(wed)
weekday 15:00-21:00
holiday 13:00-20:00

at Pulp (大阪市中央区北久宝寺町2-5-15 B1→MAP)
※南堀江より堺筋本町へ移転

[ARTIST]
NAZE
takuyawatanabetakuya
森本悠生

※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

Share
Tweet
★ここを分記する

series

Creative Village